社会主義 - ウィリアム・モリス

ウィリアム 社会主義

Add: xehyne77 - Date: 2020-11-25 20:19:41 - Views: 3659 - Clicks: 9413

モリス,ウィリアム(Morris,William) 1834年~1896年。詩人、工芸職人、デザイナー、社会主義者、環境問題活動家、小説家、出版者として、19世紀の英国社会に多大な影響を与えた。. Retrieved 年3月8日 (木) 14:34, UTC. ウィリアム・モリス 略歴 〈ウィリアム・モリス〉1834〜96年。イギリス・ヴィクトリア朝の詩人。装飾芸術家。社会主義運動家。 〈E.B.バックス〉1854〜1926年。英国の社会主義者。. フリー百科事典 Wikipedia. 日本大百科全書(ニッポニカ) - ユートピアだよりの用語解説 - ウィリアム・モリスが1890年、社会主義者同盟機関誌に発表した作品。ある社会主義者が夢のなかで、未来の共産主義社会がテムズ河畔に実現されているのを体験していく。その未来社会は1952年に始まる激しい革命闘争を経て、約2. エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』【図一】と富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話」【図二】【図三】の類似点は、とくに〈レッド・ハウス(赤い家)〉についての記述の箇所に明確に認めることができる。 周知のとおり、〈レッド・ハウス〉とは、ジェイン・バーデンとの結婚に際しモリスの求めに応じて友人の建築家フィリップ・ウェブが設計し、一八五九年から一八六〇年にかけてケント州ベクスリー・ヒースに建設された個人住宅のことで、赤い煉瓦づくりであるためにそのような名称で呼ばれている。モリスは、この新居の室内装飾を、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやエドワード・バーン=ジョウンズを含む彼の仲間の芸術家たちと協同で行ない、この経験が、その後のモリスに工芸家ないしはデザイナーへの道を準備したといわれている。その意味において〈レッド・ハウス〉は、モリス自身にとっての、さらにはその後に続く英国のアーツ・アンド・クラフツ運動にとってのまさに揺りかごとなるものであった。 富本は、〈レッド・ハウス〉についての記述を、「ウイリアム・モリスの話」の二番目の章に振り当てている。ただし、番号だけで章題はない。この二番目の章は、大きく分けて三つの部分から構成されている。最初の部分(前段)で、主として〈レッド・ハウス〉が建設されるにあたっての経緯が述べられ、次の部分(中段)で、この家の室内が詳細に描写されている。この部分は、インデントが施されたうえに、かぎ括弧がつけられているのが特徴である。しかし、それに対する注や引用文献に関する付言はいっさい存在しない。そして最後の部分(後段)で、ロセッティやバーン=ジョウンズとの協同の様子が手短に触れられている。 この第二章は、ヴァランスによる〈レッド・ハウス〉の記述がすべて完全に逐語訳されて成り立っているわけではないが、全体をとおして見た場合、ヴァランスの部分訳と要約でおおかた構成されており、さらには記述の流れも、基本的にヴァランスのそれと一致している。 以下は、室内の様子を記述している中段の書き出しの部分である。 それに対応する、ヴァランスの記述箇所は、次のとおりである。 おそらく富本は、このヴァランスの〈レッド・ハウス〉の室内の様子についての記述箇所を読み、日本語に訳すにあたって、戸惑いを感じたにちがいなかった。という. 前節において検討した「ウイリアム・モリスの話」を巡るこれまでの言説では、等しく、この評伝が、富本自身のイギリス滞在時の経験や見聞に基づき書かれたことが含意ないしは前提とされていた。しかし、富本は、この評伝の執筆に精を出していたころに、ロンドン時代以降も交友が続いていた南薫造に宛てて書かれた、明治四四(一九一一)年一一月三〇日の日付をもつ書簡のなかで次のように述べているのである。 そしてその年の内には脱稿したのであろう。明治四五(一九一二)年一月一二日付の、同じく南に宛てた書簡の冒頭に、こう記している。 この二通の南薫造に宛てた富本の書簡から判断できることは、モリスの伝記を読んでおり、それをまとめたものが「モリスの話」であり、それが『美術新報』の二月号に掲載されることになったということである。さらにそのことを裏づけるように、後年富本は、自らのイギリス時代に触れて、以下のように述懐しているのである。 これまでの富本憲吉に関する研究者や批評家たちは、「モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした」あるいは「社会主義者の方面は書きませんでした」という文言については指摘ないしは言及してきたものの、そのふたつの文言にはさまれた「それ[『美術新報』]に美術家としてのモリスの評伝を訳して出しました」という一文に着目し、富本の「ウイリアム・モリスの話」がモリス伝記の翻訳として成り立っていることを明らかにしたうえで、その前提に立ってこの「ウイリアム・モリスの話」という評伝の意味と価値を論じた者はいなかった。その理由は何か。あえて推測をすれば、実際にモリスに関心を抱いて英国留学をした富本その人がひとつの帰朝報告としてモリスについて書き、それが日本における最初の本格的モリス紹介であった事実の前には、この「ウイリアム・モリスの話」が翻訳として成り立っているか否かは、さほど重要視する必要がなかったのかもしれない。さらには、編年的に記述されているモリスの人生にかかわる伝記的知識よりも、多くの研究者や批評家たちにとっては、その記述のあいまにちりばめられている、若き芸術家富本憲吉の、先達モリスの工芸家としての姿勢に対する見解やモリス作品に対する解釈の方が強く関心をそそる対象と化し、富本自身が述べている「モリスの評伝を訳して出しました」という言説については、意識的であろうと、無. See full list on www2.

ウィリアム・モリスの世界 デザイナーにして思想家、実業家にして詩人、画家にして社会主義者。 後世に深い影響を与えた先駆者=ウィリアム・モリスの全貌は、一片のデザインや一品の作品からではなかなか窺い知ることができません。. 一九一二(明治四五)年に公表された「ウイリアム・モリスの話」の二番目の章のなかの二番目の部分、つまり、〈レッド・ハウス〉の内装について描写された、かぎ括弧でくくられた箇所(中段)を読んだ読者は、その家の室内の様子をどのようにイメージしたのであろうか。当時、限られた数名を除いては〈レッド・ハウス〉を訪問した日本人はいなかったはずであるので、おおかたの読者は、このテクストからのみその家の室内をイメージせざるを得ず、その記述からどれほど正確な外観【図四】【図五】や間取り【図六】、さらには家具、調度品の特徴を読み取ることができたのであろうか。今日においても、〈レッド・ハウス〉を訪問した経験をもつ人やこの家について何かほかの知識をもつ人は別にしても、このテクストだけを手掛かりにこの家の内部の様子を正確に再現することができる人はどれだけいるだろうか。そのような疑問を抱かせるほどまでに、富本の〈レッド・ハウス〉記述は理解しにくいテクストとなっている。 その理由は何か。利用した底本が、過去の「覚え書き」を断片化し、それらを再構成するといった形式で〈レッド・ハウス〉が描写されており、そうした形式をもつテクストの翻訳であることに由来して読みにくくなっていることは、当然であるとしても、この富本のテクストには〈レッド・ハウス〉に関する図版がいっさいつけられておらず、そのことも、この家についての正確な再現を妨げる一因となっているように思われる。 ここで指摘しておかなければならないのは、底本のヴァランスの著作には〈レッド・ハウス〉について七葉の図版が挿入してあるにもかかわらず、富本のテクストには、それが全くないということである。 まず、ヴァランスのテクストに挿入された図版について。このなかで〈レッド・ハウス〉に関しては、外観や室内を描写した七枚のイラストレイションが用いられている。製作者はサインから判断して、すべてH・P・クリファッドという人物であるが、この芸術家については、ほとんど詳細はわかっていない。しかし、ヴァランスは第二版の序文において、図版の提供者であるチャールズ・ホウムへ謝意を示しており52、そのことから判断すると、このイラストレイターは、ホウムに近い人であったと考えられる。ホウムは、一八九〇年から一九〇三年にかけての〈レッド・ハウス〉のオーナーかつ居住者であり、一八九三年に. 社会主義同盟を結成、モリスを編集長として同盟の機関誌『コモンウィール』を発行 次女メイ・モリス、商会の刺繍部門の監督となる。 1887年 53歳: 壁紙『Willow Boughs』デザイン。 1890年 56歳: ケルムスコット・プレス設立準備のため、活字のデザインに熱中。. 社会主義 - ウィリアム・モリス 本論文をとおして、私は、富本憲吉が一九一二(明治四五)年に『美術新報』に発表した評伝「ウイリアム・モリスの話」にかかわるこれまでの代表的な言説を紹介し、検討を加えたうえで、この評伝には底本が存在し、それが、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことを明らかにした。そしてさらに、その評伝のなかで富本が言及している〈レッド・ハウス〉にかかわって、この三〇年のあいだに富本の〈レッド・ハウス〉訪問が神話化されてきたことに対して、現時点では、富本のその家への訪問を断定することはできないことを、私の利用可能な資料の範囲にあって論証した。 富本の評伝に底本があったことが判明したことが、決してこの評伝の価値を下げることにはつながらない。そうではなくて、むしろ、富本のモリスについての勉強の実態の一端が明らかになったことにより、富本のモリス受容の内実を具体的に探るうえでのさらなる有効な手掛かりが得られたことを意味しているのである。 そのような観点に立って、今後まずなすべきことは、評伝「ウイリアム・モリスの話」をヴァランスの評伝『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』に即して、再度読み直すことである。本論文では、〈レッド・ハウス〉の記述に関して、そのような試みを部分的に行なったが、その作業を全文にわたって適用する必要があるのではないだろうか。次に行なうべきことは、ヴァランスの評伝に書かれている内容で、事情があって富本が公的に扱うことを放棄した部分、とくにモリスの社会主義にかかわる部分の富本の受容のあり方を、帰国後の活動に照らして実証的に再吟味することではないだろうか。もうひとつ加えるとするならば、富本のロンドン時代の再構成である。富本の製作活動の出発が、ロンドン時代の経験にあったことは、周知のとおりである。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのスケッチ、中央美術・工芸学校でのステインド・グラスの実習、地方への写生旅行、友人たちとのあいだでの意見交換、さらには、ロンドン滞在期間中のカイロとインドへの調査旅行――こうした若き日の富本のイギリス体験の全貌が一体となって明らかにされたうえで、その後の富本の製作活動と文筆活動が照合されるならば、さらに富本理解は進展をみることになるのではないかと思われるのである。すべ. ジェオグラフィカでは椅子の張り生地にウィリアム・モリスのデザインしたものを良く選びます。 19世紀英国の詩人でありデザイナー、そして社会主義者でもあったウィリアム・モリス、及びモリス商会の残したデザインは時代を超えて支持され続けています。. デザイナー・詩人 ウィリアム モリスは、イギリス・ロンドン出身です。様々な分野にマルチに活動しました。しかし、詩人とデザイナーの組み合わせは少し珍しいですね。ウィリアム モリスは、テキスタイルのデザインが最も有名です。また日本の「民芸」などにも影響を与えています。.

センチメンタルな社会主義者 『ウィリアム・モリス』 エンゲルスは「モリスは根深くもセンチメンタルな社会主義者」と言った。モリスの社会主義が、イデオロギーよりむしろ情熱的な基礎の上に立って、労働者たちに「人間であれ」と望んでいることは. アーツ&クラフツ運動の主導者として知られるウィリアム・モリスは19世紀末、社会主義運動に精力を注ぐ。 〈社会主義同盟〉を結成し、機関紙「コモンウィール」を創刊、学識に富む若き同志E・B・バックスとの共同執筆のかたちで「社会主義─その根源. ―ウィリアム・モリスの1 80年代― はじめに 1880年代のウィ リアム・モ ス(William Morris, 1834-96)は一方で草創 期のイギリスの社会主義運動を牽引し、他方、本業のモリス商会ではテキ スタイル部門を主としたデザイン制作で目覚ましい成果を上げた。後者の. 『ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動の源流 (平凡社新書)』(大内秀明) のみんなのレビュー・感想ページです(10レビュー)。作品紹介・あらすじ:工芸デザイナーとして著名なウィリアム・モリスは、マルクス主義者を自認する社会運動家でもあった。『資本論』の精緻な. ウィリアム・モリスとe・b・バックスの共著でモリスさんはアーツアンドクラフト運動で有名な方だそうです。そしてそこに社会主義というものがあるのだということの証明の本であります。 モリスさんの社会主義というものはとてもいいものだと思いまし. 第一部 ウィリアム・モリス没後一〇〇周年 第二章 ロンドンで日本のモリスを語る はじめに.

. →紀伊國屋書店で購入 ウィリアム・モリスはかつては非マルクス主義系社会主義者として、最近では近代デザインの創始者として著名だが、ファンタジーの祖という一面ももっている。 不思議な物語は太古の昔から語られてきたが、この世ならぬ異世界を宗教心とは無関係に作りあげ、そこで. 藤田治彦『ウィリアム・モリス:近代デザインの原点』鹿島出版会、1996年。 藤田治彦『もっと知りたいウィリアムモリスとアーツ&クラフツ』東京美術、年。 『モダンデザインの父 ウィリアム・モリス』京都国立近代美術館他、1997年、180-182頁。. ウィリアム・モリスは世界を美しくしようとした。美しさへの才能が開花したのは著述の世界と、刺繍や染色、カーペット、カーテン、壁紙、タペストリーなどのテキスタイル芸術。 目指すのは争いも苦痛も失敗も失望も挫折もない、人々の趣味道楽だけでうまく回っている経済の世界. エンゲルスは「モリスは根深くもセンチメンタルな社会主義者」注1 と言った。モリスの社会主義が、イデオロギーよりむしろ情熱的な基礎の上に立って、労働者たちに「人間であれ」と望んでいることは、モリスの政治的確信が、彼の出会った社会状態への反作用のうちに展開した、まるで.

芸術と生活―――ウィリアム・モリスの美的ユートピアをめぐって――― 藪 亨. More 社会主義 - ウィリアム・モリス videos. 富本憲吉は、一九一二(明治四五)年に刊行された『美術新報』第一一巻第四号に「ウイリアム・モリスの話(上)」1を、そしてそれに続く第五号に「ウイリアム・モリスの話(下)」2を発表した。一九三四(昭和九)年に東京ヰリアム・モリス研究會により編集、出版された『モリス書誌』3に従えば、それに先立って、ラファエル前派の紹介にかかわって上田敏が簡単にモリスに言及し、『平民新聞』においては社会主義者の詩人としてのモリスが紹介され、またモリスの『理想郷(ユートピア便り)』が堺利彦により抄訳され単行本として出版されていたので、全く最初のモリス紹介というわけではなかったが、詩人や社会主義者としてではなく、美術家としてのモリスを日本へ本格的に紹介したものとしては、富本のこの「ウイリアム・モリスの話」と題された評伝が最初のものであった。 その後、この評伝を巡ってさまざまな位置づけがなされてきた。この第一節では、その幾つかを紹介するとともに、その評伝にかかわる解釈や論点をまず整理しておきたいと思う。 ウィリアム・モリス生誕百年を記念して一九三四(昭和九)年に出版された『モリス記念論集』のなかで「書物工藝家としてのモリス」と題する一文を寄稿した壽岳文章は、翌年、続けてモリスに関連して「ウィリアム・モリスと柳宗悦」を『工藝』に発表した。この論文は、その表題にも示されているように、モリスをも凌駕する柳宗悦の偉大さを賞讃するために書かれたもので、富本の「ウイリアム・モリスの話」については、枕詞的に、短く次のように触れられている。 この論文が書かれた翌年の一九三六(昭和一一)年には、東京駒場に日本民藝館が完成し、それにあわせて「新作工芸展」が開催された。さらに次の年には、国画会から民藝派が離脱し、富本と民藝派とのあいだに存在していたそれまでの溝が決定的になるのである。壽岳のこの論文は、そうした推移の予兆となるものであったように思われる。 しかし、こうした戦前の高揚したモリス研究は、それ以降、戦中から戦後のしばらくのあいだをとおして、日本の論壇にあっては後景に退いた感があった。富本の評伝「ウイリアム・モリスの話」についても、同様のことがいえた。そうしたなか、一九六三(昭和三八)年六月に富本が死去すると、富本への追悼文が幾つかの新聞や雑誌を飾り、そのなかにあって、中村精が「富本憲吉とモリス――工芸運. 社会主義 - その成長と帰結 - ウィリアム・モリス - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. . Amazonでウィリアム・モリス, E・B・バックス, 大内 秀明, 川端 康雄の社会主義。アマゾンならポイント還元本が多数。ウィリアム・モリス, E・B・バックス, 大内 秀明, 川端 康雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 近代デザインの祖として有名なウィリアム・モリスは、現実社会にめざめた実践的な芸術家として、「よろこびとしての労働」という概念を抱く。 その後、美学と政治思想を統合し、「美しい社会」の実現をめざす「芸術社会主義」という独自の思想を展開.

William Morris(ウィリアム・モリス)1834年~1896年 詩人、工芸職人、デザイナー、社会主義者、環境問題活動家、小説家、出版者として、19世紀の英国社会に多大な影響を与えた。その影響は、没後120年以上経っても衰えず、むしろ重要性が高まっている。. モリスの「夢」とは、一言で言えば、素朴な手仕事の芸術化、そして芸術の日常化、それを可能にするための社会の仕組みを招来させることの一事につきる。 彼は社会主義者として活動し、連帯にこだわった。. り上げて行ったのである。 はじめに. ウィリアム・モリス( William Morris 、 1834年 3月24日 - 1896年 10月3日)は、19世紀 イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。 多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。. すでに第一節において、小野二郎が一九七七(昭和五二)年に書いた「『レッド・ハウス』異聞」から次の一文を引用した。 それ以降、幾人かの研究者の仕事をとおして、富本憲吉の〈レッド・ハウス〉訪問を断定する論調が現われてきた。以下は、その幾つかの事例である。まず、一九八六(昭和六一)年に乾由明は、展覧会カタログに所収された論文のなかで、次のように、富本の〈レッド・ハウス〉見学について述べている。 続いて、一九九七(平成九)年には、菊池裕子が、イギリスの雑誌『クラフツ』のコラム記事のなかで富本憲吉を取り上げ、彼の〈レッド・ハウス〉訪問を、こう紹介することになる。 さらに、一九九九(平成一一)年刊行の辻本勇の『近代の陶工・富本憲吉』においても、富本のその家への見学が、以下のように明示されているのである。 こうした論調にみられる富本憲吉の〈レッド・ハウス〉訪問についての断定は、どれも、彼が帰国後発表した「ウイリアム・モリスの話」の存在がその根拠となっていると考えていいだろう。しかし、これまでに詳述してきたことから明らかなように、この富本のモリスについての評伝は、エイマ・ヴァランスの著書に基づく翻訳によってその骨子が形成されており、そうした事実を踏まえて、再度この「ウイリアム・モリスの話」を読み直した場合、とりわけ〈レッド・ハウス〉にかかわって問題にしようとするならば、当然ながら、その家への彼の訪問の真実性が改めて問われなければならないことになる。果たして富本は、本当に〈レッド・ハウス〉を訪問したのであろうか。 そのことを検討するために、再度ここで、〈レッド・ハウス〉が記述されている、富本のテクストの二番目の章へともどらなければならない。第四節で紹介したように、この章は、大きく分けて三つの部分から構成されている。〈レッド・ハウス〉が建設されるにあたっての経緯が述べられている最初の部分(前段)。この家の室内が詳細に描写されている二番目の部分(中段)。この部分には、インデントが施され、かぎ括弧がつけられている。そして、ロセッティやバーン=ジョウンズとの協同の様子が手短に触れられている最後の部分(後段)。この第二章の構成は以上の三つの部分である。 最初に注目されてよいのは、この第二章全体を通じて、〈レッド・ハウス〉に対する富本自身の記憶や感想がいっさい述べられていないということであ. 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の図案科に入学し、建築と室内装飾を学んでいた富本憲吉(一八八六―一九六三年)は、翌年三月の卒業を待たずして、早めに卒業製作《音楽家住宅設計図案》を提出すると、ただちに渡英の途についた。一九〇八(明治四一)年一二月一九日のことである。この地で彼は、ロンドンの中央美術・工芸学校の夜間クラスでステインド・グラスの実技を学び、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ではウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)の作品に実際に触れ、一方、南薫造や白滝幾之介とともに、ロンドン郊外のウィンザーへの写生旅行をも楽しんでいる。滞在末期の一九〇九(明治四二)年の一二月(あるいは翌年の一月)には、農商務省から派遣された新家(にいのみ)孝正の助手として回教建築様式の調査のためにエジプトとインドへ向けて出立し、四月に一度ロンドンへもどるも、五月一日に三島丸に乗り込み、日本への帰路につく。神戸への上陸は、六月一五日のことであった。そして、イギリスからの帰国後の一九一二(明治四五)年に、富本は、「ウイリアム・モリスの話」と題する評伝を二回に分けて『美術新報』に投稿することになるのである。 これまで、この「ウイリアム・モリスの話」は、日本へまとまったモリス像を紹介した最初期の文献のひとつとして高く評価されるとともに、富本自身のモリス受容を指し示す貴重な資料として位置づけられてきた。 本稿は、これまでの富本研究において全く言及されることのなかった、「ウイリアム・モリスの話」の成立事情を明らかにし、その評伝のなかで富本が記述している〈レッド・ハウス(赤い家)〉への彼自身の訪問の可能性についても検討し、全体として、この評伝の記述内容に関して新たな視点から読み解くことを目的としている。果たして当時の富本にとって、詩人であり、デザイナーであり、社会主義者であったウィリアム・モリス、そして彼の結婚に際しての新居であった〈レッド・ハウス〉はどのような意味をもっていたのであろうか。本稿をとおして、少しでもその点を明確にしてみたいと思う。.

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